台北のドキュメンタリーフェスティバル参加報告~2019 Best of INPUT 世界公視大展精選~「暗黒告白」

Unearthing Taipei vol.3 (ご無沙汰しすぎました(笑))
ドキュメンタリーを見て、感じたこと、考えたことをまとめました。楽しい投稿ではないので、気になる人だけ読んでください。
~わたしの人生とわたしが暮らす社会は不可分であるということ~ 2019 Best of INPUT 世界公視大展精選 「暗黒告白」

※Unearthing Taipeiでは、日本の旅行ガイドブックやおススメスポットを紹介するサイトにさえ載っていないような、台北の穴場スポットやディープなイベントを、個人的な趣味、嗜好に基づいて「unearth 」(発掘)していきます。 場所の歴史や人生の物語、社会問題など、ものごとの核心部分はいつも見えないところに埋もれています。この連載はそういった深層に眠る核心をunearthすることに意義を見出しています。

以下、本文

正面に堂々と構えるレンガ造りの建築が趣を感じさせる台師大のキャンパス。日曜日の今日、そんな師大のキャンパスが大勢の一般人で賑わっていたのは、日本語能力試験の試験会場だったからという理由だけではない。正面右の講堂では、台湾のテレビ局、台湾テレビ公視主催のドキュメンタリーフィルムフェスティバル「2019 Best of INPUT 世界公視大展精選」が行われていたのだ。今回の記事では、このフィルムフェスティバル最終日で上映された4本のドキュメンタリーについての感想をまとめ、それを踏まえたうえで、本イベント自体が提起するメッセージを、テーマ設定「暗黒告白 Dark Confessions」の狙いに触れつつ、考察の射程に入れていきたい。

最初に簡単にこのイベントの全容を明らかにしておく。
今年度のテーマ「暗黒告白 Dark Confessions 」に基づいて世界中から精選された計12本のドキュメンタリー作品が、11月29日から12月1日までの3日にわたって上映された。
12本のドキュメンタリーは、5つの単元として以下の通り、分類されている。
「開幕単元:強国黒幕 THE DARK SIDE OF SUPERPOWERS」
上映作品
 ・CRACKDOWN: THE RULE OF LAW IN CHINA
 ・DOCUMENTING HATE: NEW AMERICAN NAZIS
「第二単元:一国二世界 ONE COUNTRY, TWO WORLDS」
上映作品
 ・FIRST CONTACT
・CHILDREN OF THE BELGIAN-CONGO
・TENGO-CHAN
「第三単元:毒家真相 UNVEILING TOXIC TRUTHS」
上映作品
 ・SYNTHETIC TURF, DAMMED PITCH
・NEWS DESK: WE'LL BE THERE-THE JOB OF DEATH
・GHB UNRAVELLED
「第四単元:科技抗暴 TECH-SAVVY CIVIL RESISTANCE 」
上映作品
 ・THE PEOPLE ON THE STEPS
・ON THE SPOT: SMART WORLDS-TECH MONKS
「閉幕単元:黒暗之光 LIGHT IN THE DARK」
上映作品
 ・A WORLD OF BOISTEROUS SILENCE
・BLIND FLYING

今回、わたしが見たのは最後の4本のみである。
あまりにも長くなりそうなので、この投稿では第四単元の1本だけ記す。残り1本と第五単元の2本は投稿を分けて紹介する。

THE PEOPLE ON THE STEPS
2017年、10月1日に行われたカタルーニャ独立を問う住民投票当時に起きた市民と警察との衝突について、市民たちがスマホで収めていた現場映像を、市民たち一人一人の証言と照らし合わせながら、事件の真実に迫るドキュメンタリー。
住民投票当日、スペイン政府は、自治的に投票を行うこと自体が違法だとして、警察による実力行使で投票所にある投票箱を強制撤収しようとする。その思惑を事前に把握した市民たちは、前日の夜中から投票所である学校に待機し、警察が学校に入ってこれないように、正門に人の壁をつくり、さらに、投票会場に通じる唯一の階段に座り込む作戦を講じた。
そして、投票日当日、全身武装した警官隊はやってきた。人の壁のため、正門から入るのが不可能だと気付くと、サッカーコート側の小さな門を物理的に破壊し、学校になだれこんだ。市民たちは第二の人の壁を作って、警官隊の侵入に応じるが、警官隊は強引に腕や肩、足をつかみ、引きずり、暴力的に排除しようとする。階段に座り込む市民たちに対して、全身武装の警官たちの暴力は更にエスカレートする…

このドキュメンタリーで注目すべきポイントは2つあると思う。
1、多くの市民たちが、警官隊が無抵抗な市民たちに排除するのに必要以上の暴力を行使した状況をスマートフォンで克明に記録していたということ。
2、そのような決定的な証拠があるにも関わらず、警官隊による暴力の行使があったという真実は消しかけられたということ。ある大手メディアの報道では、警官隊は全く暴力的な手段に訴えることはなく、投票箱を撤収するという目的遂行のためだけに必要なことだけを行ったという明らかに権力に加担し、事実を歪める報じ方をしたということ。さらに、自分が警官隊にされた暴力を自らのSNSで発信した女性のSNSアカウントには大量の批判コメントが殺到した。それらの多くは、「どうせ、誇張しているだけだろ」という内容のものだった。

この2点を総合すると、スマートフォンの普及、つまりテクノロジーの発展は、誰でも実際の状況を映像として記録し、一昔前ならありえない速さで、世界中の人に圧倒的な規模で、周知させることができるという強力な権力を監視するツールを手に入れたが、そのことを楽観視できるほど、十分な希望の光ではないということだ。
権力と人間の敵対感情は、目に見えて明白な事実でさえ、蓋を被せ、自分たちに都合のいいシナリオをでっちあげ、人々の認識に映る真実を「コントロール」することすらできる。

※Unearthing Taipeiでは、日本の旅行ガイドブックやおススメスポットを紹介するサイトにさえ載っていないような、台北の穴場スポットやディープなイベントを、個人的な趣味、嗜好に基づいて「unearth 」(発掘)していきます。 場所の歴史や人生の物語、社会問題など、ものごとの核心部分はいつも見えないところに埋もれています。この連載はそういった深層に眠る核心をunearthすることに意義を見出しています。

 

AIU生が語るリベラルアーツのお話~リベラルアーツは最高に面白いけど、人に説明するのは最高に難しい。~

リベラルアーツの大学国際教養大学生の私が大好きな学びの分野を人に説明するのはめちゃくちゃ難しいと思う話。

台湾に留学して早2か月が過ぎようとしています。(※FBに投稿してたのを今2020年3月にこちらのブログに転載してるため時期がずれてます。本投稿を書いたの2019年10月末頃です。)
謝謝と你好しかわからなかった中国語も簡単な会話だけならできるようなりました。

素敵な友達もたくさんできました!台湾人の友達はもちろん、中国人の友達、カナダ人の友達、日本人の友達、台湾人の友達、台湾人の友達…。あれ?、羅列してインターナショナル感出そうかと思ったけど、案外ほとんど台湾人だった(笑)まあ、そんなことはともかく、一人一人についてその人の魅力を熱く語れるくらい大好きな友達です。本当に人の縁に恵まれる星の下にうまれたことに心から感謝しています。

それからたった2か月にしては自分の学問的関心の幅をぐっと広げることができたのと同時に、パズルのピースがはまっていくように、自分が関心を寄せていたいくつかの異なる学問的観点や概念の間に面白そうな親和性・連関性を見出すことができていて、だんだん絞れつつあります。一言でいうと、「あらゆる非人間的存在(物体+自然)を含めた世界の複数性についての研究と『自然』概念の編みなおし作業」です。
要は、「人間が地球環境に及ぼした影響ってなによ?逆に物体や自然は人間の行為にどう作用しているの?人間はどのように非人間的なものを自分たちとは異質な存在として区別してきたのかな?そもそも、『自然』ってなに?どう定義してきたの?『自然』の見方は一つだけじゃなくて、わたしたちと異なる環境で暮らしている人々はそれぞれの『自然観』があるけど、ある特定の自然観に優位性はあるのかな。なぜ、科学的自然観と原住民の自然観は対等なものとして認識されてこなかったのか?それは、わたしたち現代人が、非人間的なものが人間に与えている影響の大きさ、あるいは「身体性」を軽視してきたからじゃないの?「社会」と「自然」の分化って本当に正しいの?自然の問題も社会の問題として認識してみるってどうよ。100年後に生まれる子供たちに対する私たちの責任ってなに?」というように現代社会の在り方にもろもろの批判的な言説を含む主題です。僕はこれらの疑問を以下の学問領域、概念、理論、見識から深めていきたいと思っています!!

アーレントの複数性と出生の概念(the concept of plurality and beginning by Hanna Arendt)、ハンス・ヨナスの環境・世代間倫理(Hans Jonas's environmental ethics and intergenerational ethics)、ラトゥールのアクターネットワーク理論を基礎にした一連の哲学的議論(Latour's philosophical discussion about Actor network theory, gaia, and cosmopolitics)、カストロパースペクティブ主義(Castro's perspectivism)、ミシェル・セールの自然契約論(Michael Sare's Natural Contract)、社会生態学(Social Ecology)、エコクリティシズム(Ecocriticism)

無理やり一言でまとめるなら「環境人文学」を勉強しています。でも、「環境人文学」って包括的すぎてナンセンスなので、結局、人類学と、政治哲学と、環境哲学と、社会学と文学と…うん、結局説明すんのむずいってなるよね(笑)

さてさて、本題に入ります。

結局、今自分が興味を持っている問題って、まさにリベラルアーツ的な、つまり、多角的なものの見方が必要で、いろんなレンズからものごと見るっていうのがとにかく面白いのです!!理系科目でも文型科目でも、問いをつきつめると、その根底に共通項を持っていたりするのです。例えば、生物学者である福岡伸一の「動的平衡」が西田幾多郎の哲学とシンクロするように。物理学の宇宙のエネルギーの質量を全部プラマイするとゼロになるという計算が大乗仏教の「空の思想」に通ずるように。
共通項の発見だけでなく、それぞれの学問が一つの難題を解くために、それぞれが補完し合い、受け継いだり、応用したり、別の文脈で新しく意味付けしたりするのです。それが上手いと、驚いたり、唸ったりします。

このような様々な学問分野を結び付け、協力させるために、リベラルアーツの精神的な部分、心が開かれていること、好奇心、チャレンジ精神が一役買うと思うのです。

だから、いろんなことに好奇心のアンテナ張り巡らして勉強するのまじで楽しいんですよ。

それでね、世界中から集まってる留学生にあなたの専攻なんですか?って、その学問のどんなところに興味を持っているのか目を輝かせて聞くんですけど、一通り聞き終わったら、逆に聞き返されますよね?

What's your major? って

わたし: Actually, I don't have any specific major.

Aさん: ???

わたし: I belong to Global Studies program

Aさん: ??????

わたし: It's very interdisciplinary.

Aさん: ????????

わたし: Since my home university is liberal Arts college,

Aさん: ???????????

わたし: I have to study various subjects from various academic fields.

Aさん: I see. ???

わたし: .................

(終)

 

国立台湾師範大学美術史大学院の授業で文化遺産保存の事例研究を始めたよ!

師範大学美術史大学院の授業で地元のモダニズム建築について研究します!!


今、留学先の台湾の大学で履修しているCultural Heritage Conservation and Cultural Policy 「芸術遺産保存と文化政策」という授業の一環で、保存の方法やそれを取り巻く政策について歴史的、倫理的、経済的な観点から議論の余地がある芸術作品を一つの事例として「どのように保存すべきか、なぜ、その保存方針に至ったのか、その理由は倫理的に正しいといえるか」等々を調査・研究するケーススタディを行なっています。

いつものように授業の名前に一目ぼれして、好奇心だけで飛びついてみたところ、案の定とても面白いし、自分の故郷のあり方についてアカデミックな興味を持って考える大変いい機会を得ることができました。

私がケーススタディの対象として選んだのは、地元の都城市民なら誰もが知ってる「都城市民会館。」

1966年に日本を代表する建築家の一人、菊竹清則氏が設計した文化会館で、高度経済成長の時代に、彼が黒川紀章氏らとともに提唱した、社会の発展に呼応して変化・成長する建築を説く「メタボリズム」という建築運動の代表作の一つに数えられています。

このように建築学史的、歴史的文脈から大変価値があることは言うまでもないのですが、実はこの「都城市民会館」、今年の2月に都城市議会で事実上の取り壊しが決まり、現在、約1週間前の時点で、平屋の部分は更地と化してしまいました。今まさに、本体取り壊しの工事が始まったところで、今日もそして明日も、着実に、淡々と、破壊されていくでしょう。

ちなみにその直後に、ユネスコの諮問機関であるICOMOS (国際記念物遺跡会議)から、国、県、市に危機遺産勧告が手渡されています。取り壊すなという勧告です。

率直に言って、本当に悲しいです。取り壊しが進んでいく様子を目にする度に、絶対に取り返しのつかな
いことをやってしまっているという暗然たる喪失感を感じます。一体何年先のことを考えたらこのような結論にいたるのでしょうか?5年?10年?お金がかかるから「シカタナイ、メンドクサイ」で片づけていいことなのでしょうか?街の歴史的、文化的アイデンティティを自ら失うという計り知れない代償と引き換えに?疑問は尽きません。

大学3年生にして、都城を離れて2年以上が経ち、留学先の大学の授業でようやく、この問題について真剣に考え始めたのですが、時すでに遅し。
市民会館の価値や存続の在り方につて考える機会は少なくなかったので、ずっと知っていたのですが、こんなに話が進んでいるとは今年の夏に実家に帰るまで気づきませんでした。

小学1年生の時に、通い始めたばかりの絵の教室で、市民会館のスケッチをした時の記憶はなぜか鮮烈に残っています。
高校2年生の時には、美術部の先生のお誘いで、高嶺格さんという現代美術家の市民会館をテーマにしたインスタレーション制作のボランティアをしました。
それから、微かですが、開館時に1度だけ映画を見に行った記憶があります。

今の僕にできることは僕なりに一生懸命勉強して、芸術遺産保存の観点から、この都城市民会館をめぐる一連の政策を学問的に評価し、英語で小論文を書くこと、それからそのアウトプットを共有し、少しでも多くの人にこの市民会館の存在とその処遇について考えを巡らせてもらうきっかけをつくることだと思っています。
見たところ、都城市民会館について言及している英語のアーティクルはほとんどないようなのでいくらか意義はあるかと思って頑張ります!!

世界が注目する哲学者ブルーノ・ラトゥール氏にサインもらっちゃった!

台北ピエンナーレ2020 ブルーノ・ラトゥール氏キュレートリアル講演

2019年、9月21日(日)台北にて、

なんと、

なななななななななんと、

なななななななななななななんと、

なななななななななななななななななんと、(ためすぎw)

ブルーノ・ラトゥール氏と会って言葉を交わすことができましたぁぁぁぁぁぁ!!!!!😊👏👏👏🎉🎉🎉

おい、誰やねんっっっっ!!

日本での知名度はまだまだ低いので、知ってる人はほとんどいないと思いますが、

1990年代以降の人文社会科学の分野に大きなな影響を与えた社会科学理論ANT(アクターネットワークセオリー)の提唱者で、御年72歳(1947年生)のフランス人哲学者、人類学者、社会学者です。

って説明しても、「うん、そうなんだぁ!(興味な😶)」ってなると思うので、

どれだけすごいのかというと、

1.2007年に人文社会科学分野における論文の被引用回数ランキングでベスト10入り。(タイムズ・ハイアー・エデュケーション)

2.人文社会科学において最も権威のある国際学術賞ホルベルグ賞を2013年に受賞。

3.パリ政治学院をはじめ、世界の名だたる大学で教鞭をとっていた。(退職しましたが、世界各地でばりばり講演活動してます)

世界中の人文社会学者が今まさに、「現在進行形」で大注目している一流に研究者なのですが、

会ってきました!

お話ししてきました!!!

サインもらいました(しかも僕の名前付き)!!!!!!

どう?わかっていただけたでしょうか?
このすごさが、この感動がぁ😭😭😭😭

まあ、もちろん、別にすごい人と会ったからこんなに感激しているわけではなくて、(僕は自分が好きな人でない限り、有名人と道端であっても見向きもしないタイプだと思います。うそ、チラ見くらいはするかも)

僕自身が、「哲学」という最も興味のある学問領域で、大きな関心を寄せて勉強している「多自然主義(人類学にもまたがります)」という考え方に、密接に関連する理論や概念を打ち出している人物だからです。先学期、大学で難しすぎて意味が分からない彼の文献を読んで大変な思いをしましたが、、

つまり、僕の学問・知的活動における、「雲の上にいるメンター」なのです。

交わした言葉はほんとに一言、二言で、「What's your field?」って聞かれて、「I study philosophy」って答えたら「good!」って返ってきました。彼の学生時代の専攻も(学部で哲学を勉強してるわけじゃないのに偉そうに「も」をつけるなw)哲学だったので、同じ年ごろに近い興味があったんだなと考えると感慨深いですね。ちなみに、フランスのオシャレなカフェでコーヒー片手に本読んでそうなごく普通の優しいおじいちゃんでした。

あ、

「なんで会うことができたのか」とかそういう文脈についての説明が一切ないですね(笑)

講演を聞きに行きました。(以下割愛)

今回ね、サインまでもらえて本当に幸せで、嬉しかったのですが、同時にある決意をいたしました。

次に、ラトゥールに会うときは、サイン会場ではなく、講演後の公開討論の場で挙手して質問します!!講演内容をきちんと理解し、彼と大勢の聴衆の前で質問することに自信を持って、彼を唸らせる質問ができるくらい成長して彼のもとに帰ってきたいと思います。彼と議論ができるようになりたい。

早速、中国語で"Facing Gaia"読むぞ(サインをもらったのは中国語翻訳版だけど、そこに中国語の本しかなかったもん!)

白馬寺~Give and Give and Give×無限でこの世界を巡ろう。~

2019 Unearthing Taipei Sep. 15 【vol2. Give and Give and Give ×無限でこの世界を巡ろう〜白馬寺 White Horse Temple】

台北を網羅する地下鉄(通称MRT)のイエロー線の終点駅南勢角Nanshijiaoから徒歩20分ほどの場所に、僕の住むアパートがある。そこからさらに、車で10分ほど山を登っていくと白馬寺という大きな仏教寺院に辿り着く。この南山という山には、たくさんの土着の神様のお寺や、仏教寺院があるのだ。

白馬寺は中国で初めて建てられた仏教寺でとても歴史的な信仰の場で、台湾の総統も次の選挙の必勝祈願にお祈りに来るらしい。その割には参拝客が全くいないし、日本語の紹介サイトもないので、完全な穴場だと思う。

白馬寺と名のつく通り、本堂らしき建物を目指して階段を上がると、石でできた馬の美しい彫刻が堂々と立っていた。この白馬の背中にある宝箱のようなものの中には、あなたが試験に合格したことを伝えるお知らせが入っているそうだ。

比較的質素なハコの中に、荘厳で精緻な装飾が施された菩薩や如来、お釈迦様が鎮座していた。

お坊さんや尼さんが実際に生活している寮も隣にある立派な宗教施設だ。

雨が降っていたせいか、私たちが訪れた時は他の参拝客は全くおらず、とても落ち着いた心で時を過ごすことができそうだ。

心を無にしたい時、自分に正直に向き合いたい時、意味もなく気が向いたとき、また訪れてみたい。

〜Give and Give and Give〜
今回、僕がこのお寺を訪れたことができたのは、僕が借りているアパートの大家さん夫妻が連れて行ってくれたからだ。

大家さんたちの案内がなければ、この場所を見つけることはできなかっただろう。

入居してからまだ10日も立っていないが、大家さん夫妻には、とてもとてもとてもとてもとてもとても×100くらいはお世話になっている。

なぜなら、何もしてないのに次から次へと優しさや思いやり、気づかい、愛情を与えてくれるからだ。

もう、返しきれない。

今日なんて、車で迎えに来てくれて、お寺まで連れて行ってくれて、お参り用の蝋燭を買ってくれて、お賽銭も用意してくれて、臭豆腐を買ってくれて、お茶を買ってくれて、一体一体菩薩様の名前や宗教的意味、参拝文化の解説を英語でしてくれて、昼はタイ料理をご馳走してくれて、楽しくお話ししてくれて、安い買い物の仕方を教えてくれて、帰りには電気ケトルとクッキーのお菓子をくれて、不客氣(中国語でお気兼ねなく)と言ってくれて、来週の日曜にまた別の場所に連れて行ってくれる約束をしてくれた。

感謝してもしきれない。
感謝し足りなかったな。

Give and Takeの天秤は片方のgive が重すぎて完全に傾いている。

思えば、台湾に来てから、幾度となく、「お気兼ねなく」で一蹴されるgiveがあった。

オススメの夜市が知りたいと言ったら、日本語が話せる娘さんにその場では電話をかけて繋げてくれたお姉さんは、その後ホステルのマネージャーにこの子を10ヶ月ここに泊めてくれないかってかけあってくれた。

AIU で一度話をしたくらいの師範大の台湾人の友達は、候補の物件の大家さんに僕の伝えたいことを通訳してくれて、契約が完了する最後の最後まで面倒を見てくれた。

家探しの過程では本当に多くの人を巻き込み、振り回し、ご心配とご迷惑をおかけしました。

けど、今後もずーっと関わっていきたい、かけがえのなく、大切だと思えるような人とご縁を結ぶことができた。

なんでだろう、不思議だよね。
もし、寮がすんなり決まっていたら、この人たちに会えなかったんだと思うとゾッとする。彼らと僕の人生は決して交わることのない平行線だっんだ。

思えば、この世に生を受けてから一方的にgiveを受け続けている。

今ここにいられること自体、Give and Give and Give×無限の賜物に違いない。

僕が一生かかっても返しきれないくらいのgiveだ。

全ての偶然という奇跡に感謝します。

自分に甘甘な人間だけど、自分を甘やかすよりも人にgiveする喜びを感じることで幸せになりたい。

Give and Give and Give×無限でこの世界を巡ろう。

*Unearthing Taipeiでは、日本の旅行ガイドブックやおススメスポットを紹介するサイトにさえ載っていないような、台北の知られざる穴場スポットを、個人的な趣味、嗜好に基づいて「unearth 」(発掘)していきます。 面白そうな場所に足を運び、更新していきます。面白そうな場所とは「物語が息づき、紡がれる場所」だと仮に定義し、その場所の簡単な紹介をショートエッセイつきで公開します。

教育は全体主義的であるか

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    ハンナアーレントの研究会で、教育哲学を専攻している若手研究者が全体主義に抵抗するために、アーレントの思想を教育に応用することについて考えていきたいと発表していた(自分もまさにそういうわけでアーレントを勉強している。) 

 

    その発表後の討論の時間に「教育はそもそも全体主義的ではないか」という意見が出た。最近はやりのアクティブラーニングだってこどもたちの純粋な自発性によってというより、教師の予見性、計画性によって主体的になるよう操られて行われてるではないかと。そういう指摘があった。この指摘に対し、その若手研究者も同意していたが、active learning はlearning designed to be activeかもしれない。ある特定のゴールへ向かわせる教育だったら今までの押し付け型の教育と本質は変わらない。だとしたら、全体主義的でない教育とはありうるのだろうか。アーレントのいう全体主義への抵抗のための「複数性」と「自発性」両方を備える学びの場は作れるのか。

 

     その問いへの答えとしてやはり自分はP4C(こどもと哲学対話)に可能性があると改めて思った。もちろん、p4Cにも一定のルールはあるし教師がその場をセッティングしている時点で計画的ではある。しかし、やり方次第でこどもたちの自発性をある程度は尊重できるし、何よりp4cは計画された学びの外でこそ、その力が発揮される。自分と相手が違うこと認め、その違いを尊重し、自分のパースペクティブの中に取り込む態度。「考える」と「対話する」を繰り返すことで自分の視野を広げ、判断を矯正していくことで全体主義的なメインストリームに抵抗し、新たな始まりを作る自発性。イデオロギーの押し付けではなく、判断力をつけること。それがアーレント的な解釈に基づくp4Cの真骨頂である。もちろん、こどもを

教育する上で、これだけでは足りないかもしれない。人とうまくコミュニケーションが取れるくらいの社会性を身につけさせるために規律や文化的規範の刷り込みは必要かもしれない。学校教育という場で完全なこども中心主義は難しい。バランスの問題か。

 

      ただ、教育はそもそも全体主義的であるという点から日本の教育を見つめ直すとまさにそうだと納得せざるをえない。ブラック校則やブラック部活動などまさにこどもたちの行動を制限し、世間とやらが勝手にイメージす中学生像、高校生像を校則としてルール化することで押し付け、生徒の行動や考えを計画的に予見可能なものにしていく。

 

     とにかく、「教育は全体主義的である」という言葉すごく腑に落ち、考えさせられた。あなたはどう思うだろうか?

 

 

 

 

結局、「対話」って何?

こんにちは!

  時々、哲学カフェのファシリテーター(進行役)をやっているこのブログの筆者です。今回は文体をいつもとガラッと変えて「対話」についてのお話をしたいと思います。

 対話の話を始める前に、そもそも「哲学カフェ」とは何をする場か知っていますか?

 見て字の通り、「哲学」という一見、わたしたちの日常生活から縁遠そうなものを「カフェ」みたいな馴染みのある空間でカジュアルに語り合おうというコンセプトで行われている比較的新しい文化活動の一つです。約20年ほど前にフランスで誕生し、その後世界に急速に広まっていきました。

 ルールはとてもシンプルで、決まったお題について、そこに集まった参加者が年齢や立場に関係なく、対等にかつ自由にお話をするというもの。(この基本ルールに加え、独自のルールややり方を採用している人たちもいます。)

そんな哲学カフェで最も重要な方法論であり、コンセプトであるのが「対話」です。

  では、一体「対話」とは何なのか?よく目にするけど、それほど深くこの言葉の意味について考えたことはないのではないのでしょうか?ただの会話と何が違うのか?

 対話という言葉の輪郭をはっきりさせるために、1)対話の辞書的意味、2)方法論としての対話、3)概念としての対話 という3つの観点から対話についての考察を進めていきたいと思います。

 

1.対話の辞書的意味

 『新明解国語辞典』によると「向かい合って話すこと。また、その話。」とあり、『広辞苑』によると「向い合って話すこと。相対して話すこと。二人の人が言葉を交わすこと。会話。対談。」という意味でした。

 どちらの定義にも「向かい合う」という表現があるので対話は「向かい合う」ことが前提であるといえそうです。それから「話す」ということは、実際の発話行為を伴う場合だけでなく、『広辞苑』では「言葉を交わす」という表現を使っていることから手話や筆談などの音声を伴わない行為も含まれそうです。二つの辞書を参考に、広く意味をとると対話とは「向かい合って言葉を交わすこと」だといえます。ただ、この場合、「対話」と「会話」の違いが明確ではありません。「対話」と「会話」を区別するには、対話を方法論としてみなす必要があります。

 

2、方法論としての対話

 対話はコミュニケーションにおける一つの方法論であると仮定した時点で、「会話」との違いは明らかになります。なぜなら、「会話」にはルールが存在しないからです。(もちろん、会話という言語ゲームの中で当事者間にルールが作られることはあります。)たいてい、有効な方法にはきちんとしたルールがあります。哲学カフェや対話カフェ、精神療法の一種であるオープンダイアローグにおける対話には、有効な方法たるゆえんであるルールがあります。そのため、方法論として対話を行う際は、事前に話し合う場所、時間、内容などを話す相手と決めておく必要があります。さらにコミュニケーションを双方向にすること、対等性を担保すること等も対話のルールです。

 

3、概念としての対話

 対話という言葉はしばしば概念的に解釈されます。実はこの概念的、比喩的な解釈こそが対話の持つ可能性、奥深さを物語っています。対話には自分とは到底わかりあえない他者と何とか合意を目指して行うというようなニュアンスがあります。「政治対話」、「異文化対話」などの言葉はまさにこの文脈でしょう。そして対話は常に、当事者の考えの変化や発展を伴うものでもあります。対話は考えが異なる他者の意見や価値観を知ることで、新しい知見を積極的に取り入れ、より正しい答えを出す活動です。対話教育を推進している劇作家の平田オリザさんは自身の著書で「対話は、話す前と話した後で自分の考えが変わることで初めてやった意味がある。」というようなことをいっていました。自分の立場を堅持する必要はさらさらないのです。

 この解釈をさらにマクロの視点で見て、比喩の次元に持ち込むと、「自然との対話」や「動物との対話」、「非生物との対話」という言葉が意味を持ってきます。どう「対話」を解釈するかというと、対話とは「双方向的にリアクションしあっている状態すべて」という具合です。人間は常に自然から多大な影響を受けて生きているし、逆に環境破壊など、自然に影響を与えています。そうすると自然からの反作用で砂漠化が進んだり、生態系が崩壊したり、異常気象が起きたりと、自然からの悲鳴のリアクションが返ってきます。このリアクションに対し、一部の人間たちは環境問題を深刻にとらえ、環境保護運動を起こし、自然を守ろうとします。一部の保護活動は甲を奏し、自然が再生されます。この一連のプロセスは互いに作用しあっているので、一部の人間は自然と対話しているといえます。「一部」という言葉を繰り返し協調して使うのは、自然からのリアクションを無視して、一方的に開発を続ける行為、つまり自分の考えを変えない行為は「対話」とは言えないからです。

 

ここまで、長々と「対話」という活動の可能性を意味の検証や解釈を通じで探ってきましたが、いかがだったでしょうか?

なぜ、哲学カフェに対話が重要なのかという肝心な哲学カフェと対話の関係性については踏み込めなかったので、次の記事に書きたいと思います。

対話って面白そう!と思っていただけたら、対話の場を創るファシリテーター冥利に尽きます。

読んでいただきありがとうございました。