教育は全体主義的であるか

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    ハンナアーレントの研究会で、教育哲学を専攻している若手研究者が全体主義に抵抗するために、アーレントの思想を教育に応用することについて考えていきたいと発表していた(自分もまさにそういうわけでアーレントを勉強している。) 

 

    その発表後の討論の時間に「教育はそもそも全体主義的ではないか」という意見が出た。最近はやりのアクティブラーニングだってこどもたちの純粋な自発性によってというより、教師の予見性、計画性によって主体的になるよう操られて行われてるではないかと。そういう指摘があった。この指摘に対し、その若手研究者も同意していたが、active learning はlearning designed to be activeかもしれない。ある特定のゴールへ向かわせる教育だったら今までの押し付け型の教育と本質は変わらない。だとしたら、全体主義的でない教育とはありうるのだろうか。アーレントのいう全体主義への抵抗のための「複数性」と「自発性」両方を備える学びの場は作れるのか。

 

     その問いへの答えとしてやはり自分はP4C(こどもと哲学対話)に可能性があると改めて思った。もちろん、p4Cにも一定のルールはあるし教師がその場をセッティングしている時点で計画的ではある。しかし、やり方次第でこどもたちの自発性をある程度は尊重できるし、何よりp4cは計画された学びの外でこそ、その力が発揮される。自分と相手が違うこと認め、その違いを尊重し、自分のパースペクティブの中に取り込む態度。「考える」と「対話する」を繰り返すことで自分の視野を広げ、判断を矯正していくことで全体主義的なメインストリームに抵抗し、新たな始まりを作る自発性。イデオロギーの押し付けではなく、判断力をつけること。それがアーレント的な解釈に基づくp4Cの真骨頂である。もちろん、こどもを

教育する上で、これだけでは足りないかもしれない。人とうまくコミュニケーションが取れるくらいの社会性を身につけさせるために規律や文化的規範の刷り込みは必要かもしれない。学校教育という場で完全なこども中心主義は難しい。バランスの問題か。

 

      ただ、教育はそもそも全体主義的であるという点から日本の教育を見つめ直すとまさにそうだと納得せざるをえない。ブラック校則やブラック部活動などまさにこどもたちの行動を制限し、世間とやらが勝手にイメージす中学生像、高校生像を校則としてルール化することで押し付け、生徒の行動や考えを計画的に予見可能なものにしていく。

 

     とにかく、「教育は全体主義的である」という言葉すごく腑に落ち、考えさせられた。あなたはどう思うだろうか?