読書日記3「私」を生きるための言葉 日本語と個人主義 泉谷閑示著
0人称と1人称をめぐる成長段階説。
この本、めちゃくちゃ面白い。言語論、日本語論として、斬新な示唆に溢れ、大きな知的刺激を与えてくれた名著だった。
この本のテーマは、ずばり「日本語と個人主義。」西洋の言語と比較した日本語の言語的特徴を踏まえ、それがいかに日本人の思考の癖、コミュニケーションのありかたを規定しているか、各人の「個人主義」の立脚を困難なものにしているかを前半で論じている。後半では、「個人主義」とは何か、どのようにして個の確立が難しい日本語の中で個人主義を獲得していくか、最後に、人称と人間の精神的成熟を関連付けた著者独自の成長段階モデルを提示するに至っている。
著者の泉谷閑示(いずみやかんじ)さんは精神医学や心理学が専門の精神科医なのだが、精神科医ならではの視点が、一見陳腐で典型的な日本文化論としてしか発展しなさそうな日本語の言語的特徴の分析に、変わった切り口と深みを与えている。変わった切り口とは何か?
結論からいうと、彼は日本の「世間」で話される言語を「世間」内言語と定義し、「世間」内言語に日本人の神経症性を見出してる。著者によると、「世間」とは、個が確立していない「0人称」の人々で構成される共同体だ。「0人称」的な人間とは、集団の意見や考えの正しさを疑わず、自分の意見や考えを持たない人々のことだ。つまり、筆者は、「0人称」的な言い方が普通である日本語にはもともと神経症的性質があるといっているのだ。
「日本語の神経症的性質」とは何か?
それは、「人や集団からどう思われるかを殺し文句に用いること」だそうだ。○○に笑わわれるよ、○○の一員として恥ずかしいといった類いの言葉だ。
要するに、「世間」の言葉は、「世間」の顔色を窺い、目立たないように自己を抑圧して発せられる言葉なのだ。
筆者は「世間」内言語の特徴として以下を上げている(p47,48,49,50)
・「タテ社会」的傾向
・去勢的傾向・ルサンチマン(怨恨)の表出
・スタンドプレイの忌避
・神経症性
・個人責任の回避・集団の意見による代用
・同質性の確認・同意の強制
・悪口・批判による連帯の強化
・「うち」と「そと」へのこだわり
・排他性
・「察する」文化
・逸脱者への制裁
・独善的・断定的な価値観
・旧癖(伝統)による判断
・モノローグ的
・カメレオン的変貌
・情動の嵌入
・相手に決めさせる丸投げ質問
・聞き手責任
・懐疑的精神の排除
それは、「世間」において人々は群れて自己と他者の同質性を確認することで安心感を得ているが、「個人主義」は群れることを拒否し、自分と他者は本来理解困難な異質な存在で自分は孤独であるということを引き受けることによって初めて生まれるものだからである。
この自己のおける個人主義確立の過程を、著者は夏目漱石のイギリス留学時の経験を引き合いにして説明している。夏目漱石は著書「私の個人主義」にて、「0人称」であったことに対する気付きを、「人の借着をして威張っている」と表現し、他人の評価や称賛ばかりを気にしていたそれまでの自分を捨て去ろうとする。そうして漱石は、「自己本位」という境地に至ったのだ。
最後に簡潔に、著者が提示した成長段階モデルを示しておきたい。
「未熟な0人称」→「個人主義的1人称」→「超越的0人称」
まず、孤独を引き受け、個を確立すること。これを達成するだけでも相当大変なことだ。興味深いのはその先。異質であることを前提に他者の語りを聴くこと。異物として取り込むこと。実は、その異質なものの中に自分と同じ部分、つまり普遍的な部分が見つかるというのが「超越的0人称」の意味するところだ。