連載 ディストピア学への招待序文

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  2017トランプ大統領誕生と時を機に、あるジャンルの小説の売り上げが急増しているのを知っているだろうか。ジョージ・オーウェルの「1984」、オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」。これらの小説が軒並みアマゾンの書籍売り上げランキングで上位に入ったという。どれも数十年も前の作品であるのにも関わらずだ。この連載のタイトルからもお察しの通り、これらの作品が共通して入るカテゴリーとは「ディストピア」である。このジャンルの小説を「ディストピア文学」と総称する。ディストピアの定義については本文にて詳しく後述する。筆者がディストピア文学を調べようと思った理由は学問の対象としてのディストピア文学に大きな可能性、発展性を感じたからだ。

 ディストピア文学はいまや、単なる空想科学小説、近未来小説の地位にとどまらない。行先の見えない混沌の現代社会において、それらはときに、この世界が抱える深刻な諸問題(生命操作を可能にした高度医療の発達、人口知能(AIの誕生、VRの侵食、難民問題、南北問題、食料不足、戦争、宗教対立、国際関係の緊張、核の脅威、テロリズム地球温暖化、異常気象等)の危機的状況を暴露したいかなる学術論文、公的機関のレポート、メディアのドキュメンタリー報道よりも(問題の深刻さを説明する)説得力をもちうる。奇妙なことに、それらはディストピア文学特有の小説世界をメタ的に見た時に感じるヒヤッとするような恐怖と同時に、高度なエンターテイメント性と現実世界のカオスをよくぞ暗示的に昇華してくれたなという爽快感をもたらしてくれるのだ。私がこのディストピア文学の読後感に「奇妙」という表現を使ったのは、小説世界を通して認識させられる現実世界の残酷さや狂気性からくる絶望感や陰鬱とは裏腹に文学作品としての美しさに素直に感動するというアンビバレントな感情を抱いているからだ。このアンビバレントな感情のおかげで読むのをやめられずにはいられないのだ。

 

 この長期連載ではガリバー旅行記を最初のディストピア文学と位置づけ、それを含む以下の8つのディストピア文学を調査の対象とする。

 

 「ガリバー旅行記ジョナサン・スウィフト 

 「すばらしい新世界オルダス・ハクスリー 

 「1984ジョージ・オーウェル

 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」フィリップ・K・ディック

 「わたしを離さないで」 カズオ・イシグロ

 「No.6あさのあつこ

 「虐殺器官伊藤計劃

 「アメリカン・ウォー」オマル・エル=アッカド

 

 最初にディストピア文学の定義と歴史を説明したうえで、以上の8つのディストピア文学を一冊ずつ、作品の背景知識を踏まえた作品自体の解説と作品のテーマやモチーフが具体的に現実世界の何を暗示していると考えられるのかという考察を行っていきたい。考察では一般的な暗示的モチーフの解釈に加え、このブログの筆者独自の視点(作者の意図とは必ずしも関係しない)からのモチーフの解釈も行うつもりだ。それから、もう一度ディストピアという言葉の意味を明確にし、その特徴や背景にある思想性について総括したい。最後に、現代にディストピア文学を読むことの意義を論じ、ディストピア文学のモチーフを題材にした対話の場、通称「ディストピア文学カフェ」なるものを提唱して締めくくるつもりだ。

 

  

 

 

竹田青嗣 『欲望論 第1巻「意味」の原理論』紹介

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(シリーズ投稿が頓挫していることはおいといて)今回は今哲学界が大注目している竹田青嗣の「欲望論」(既刊2巻)の紹介記事を書いてみることにした。

 著者の竹田青嗣は長年現象学を研究してきた哲学者で現在、早稲田大学国際教養学部教授である。弟子には著書「読まずに死ねない哲学名著50選」が人気を博した気鋭の哲学者平原卓がいる。竹田はこれまで主に難解な哲学的概念をわかりやすく説明した入門書、解説書で定評を得てきた。

 そのため、私がこの本の出版の報を聞いたときは、「ついに竹田青嗣独自の哲学理論を確立したのかっ!」という驚きと興奮でいっぱいだった。1巻691ページの耽溺な書物である。大学の図書館主催の選書ツアーに参加し図書館の蔵書として購入してもらった。

 今借りて読んでいるのだが、正直に言おう。私はまだ序文しか読んでいない。しかし序文にしてかなり読みごたえがあり、紹介記事まで書けてしまった。序文では現代まで約2500年の哲学を総括するという大スケッチを描いているのだ。本文から始まる竹田現象学がこれからの哲学思想の潮流にどれほどの影響を与えうるのだろうか。読み進めていくのが楽しみでならない。長い前置きになったが、以下が紹介記事本文である。

 

 哲学は今、出口の見えない迷宮に迷い込んでいる。

 ニーチェを出発点とする現代思想は、形而上学批判、近代哲学批判を主体の認識が決して普遍性を獲得しえないことを証明することによって近代的諸価値の病理を克服する超近代の思想として独自の地位を築いてきた。

 しかし竹田現代思想には形而上学的な認識論(認識の主体は自己である)を前提にせずには、成立しえないという根本的な欠陥があると指摘している。なぜなら現代思想分析哲学、論理学、心の哲学、科学哲学等)は歴史的蓄積のある形而上学な「普遍性」の観念を否認した先に相対主義を持ち込むからである。つまり、竹田の言葉を借りれば、

 相対主義は社会的、政治的な現状否認を主張するあまり、宗教原理主義であれ過激な救済思想であれ、形而上学的観念と等価な「信仰」として認めざるをえなということを意味している。

 また、竹田は形而上学的観念(本著では「本体」と呼ばれる)と相対主義の関係を本著で次のように比喩している。

 

あらゆる相対主義思想は、「本体」の観念を養分として認識の理論に座る寄生樹であってそれゆえ「本体」の解体にたどりつくことができない。

 

 しかし竹田はこの危機的状況においてフッサール現象学に希望を見出すのだ。主客の認識の双方向性を主張する立場から「本体」を解体し、「美」や「善」といった哲学的問題について独自の思想を展開する。

哲学を新たな局面へと移行させる歴史的一冊。竹田現象学の到達点がここにある。

 コミュニケーション論提題 ~コミュニケーションギャップはいかにして生まれるか?~ 

人間の認識の構造を考察した代表的な哲学者にイマヌエル・カントがいる。カントは著書「純粋理性批判」の中で、アンチノミーという概念を提示し、人間の認識の限界をつきつめている。アンチノミー(二律背反)とは、”ある命題とそれに反する命題が互角に成立してしまうために、どちらの命題が真であるとも決定できない状態のこと”(Philosophy Guides 「カント『純粋理性批判』を解読する」より引用)である。この概念を把握するうえで気を付けておきたいのは、相反する二つの命題がどちらとも"正しい”わけではなく、どちらとも一定の妥当性を持っているため、どちらが正しいかを判断することができないという点である。カントはこのアンチノミーの概念にあてはまるものとして、世界の空間的・時間的始まりと終わりを挙げている。つまり、論理的にはこの世界に始まりや終わりがあるともいえるし、ないともいえるため、世界の限界の存在の正否を明らかにすることはできないといっているのだ。カントが言うように、人間の認識では、この世界の起源でさえ、アンチノミーとして説明されるなら、人間が認識し、思考し、解釈した結果、"正しい”と決定されるあらゆる価値判断や、それに基づく行為は一体、どれだけ普遍的に”正しい”といえるのだろうか?別の言い方をすれば。ある一つの命題が、相反する別の命題の論理的妥当性を完全に否定し、排除しうるだけの穴のないロジックを持ちうるだろうか? ここで、読者諸氏と吟味したいのは、「普遍的な正しさは存在するのか?」という哲学的命題ではなく、「自分の自分の行為や他者に対する認識を"正しい”と信じて疑わない態度が、他者とのコミュニケーションにおけるひずみ(この人とは話が通じない、この人とは絶対に分かり合えない等のステレオ対イプ)を引き起こしているのである」というコミュニケーション分野における分析的命題である。このいささか陳腐で、諸氏にとっては既知の事実をあえて実証しようという試みには二つの理由がある。一つは、コミュニケーションギャップのメカニズムを、両者が共有していると"思い込んでる”イメージのずれを象のどの部分を見ているかに例えることで、概念化して分析した細谷功の「象の鼻としっぽ」理論と、コンテクストのずれの存在を理解することを前提にしたコミュニケーション教育を提示する平田オリザのコミュニケーション論の理論的統合を試みようといういくらか野心的で生意気な動機である。さらに、両者のコミュニケーション論の理論的統合の結果、見えてくる人間のコミュニケーションの根底にある知的態度(知性主義対反知性主義)に加え、高度情報化社会の発生に関連付けた現代人の心理的傾向分析にまで踏み込もうという心意気である。知性対反知性主義の考察においては、内田樹の知性主義論と佐藤優反知性主義の定義(自分にとって不利な情報や事実の客観性を軽視、あるいは無視し、都合よく解釈しようとする態度)をもとに展開するつもりである。そして最後に、既に指摘されている事柄かもしれないが、コミュニケーションギャップのメカニズム解析のプロセスとクリティカルシンキングのものの見方の共通点や類似点に触れておきたい。 以上がこれから行う論述のおおまかな流れである。壮大な旅路になるがひとりでも多くの読者を目的地まで連れていけたら幸いである。そこで見える景色に感動と新たな発見、充実した読後感が伴うよう、善処していく所存だ。断っておくが、学術的な研究成果や、卓越した洞察力による筆者個人のオリジナルな理論の構築はほとんどないといえる。理論のつぎはぎによる思考と洞察の展開である。だが、脱構築的にいえばそもそもオリジナルなどないのだともいえる。