結局、「対話」って何?

こんにちは!

  時々、哲学カフェのファシリテーター(進行役)をやっているこのブログの筆者です。今回は文体をいつもとガラッと変えて「対話」についてのお話をしたいと思います。

 対話の話を始める前に、そもそも「哲学カフェ」とは何をする場か知っていますか?

 見て字の通り、「哲学」という一見、わたしたちの日常生活から縁遠そうなものを「カフェ」みたいな馴染みのある空間でカジュアルに語り合おうというコンセプトで行われている比較的新しい文化活動の一つです。約20年ほど前にフランスで誕生し、その後世界に急速に広まっていきました。

 ルールはとてもシンプルで、決まったお題について、そこに集まった参加者が年齢や立場に関係なく、対等にかつ自由にお話をするというもの。(この基本ルールに加え、独自のルールややり方を採用している人たちもいます。)

そんな哲学カフェで最も重要な方法論であり、コンセプトであるのが「対話」です。

  では、一体「対話」とは何なのか?よく目にするけど、それほど深くこの言葉の意味について考えたことはないのではないのでしょうか?ただの会話と何が違うのか?

 対話という言葉の輪郭をはっきりさせるために、1)対話の辞書的意味、2)方法論としての対話、3)概念としての対話 という3つの観点から対話についての考察を進めていきたいと思います。

 

1.対話の辞書的意味

 『新明解国語辞典』によると「向かい合って話すこと。また、その話。」とあり、『広辞苑』によると「向い合って話すこと。相対して話すこと。二人の人が言葉を交わすこと。会話。対談。」という意味でした。

 どちらの定義にも「向かい合う」という表現があるので対話は「向かい合う」ことが前提であるといえそうです。それから「話す」ということは、実際の発話行為を伴う場合だけでなく、『広辞苑』では「言葉を交わす」という表現を使っていることから手話や筆談などの音声を伴わない行為も含まれそうです。二つの辞書を参考に、広く意味をとると対話とは「向かい合って言葉を交わすこと」だといえます。ただ、この場合、「対話」と「会話」の違いが明確ではありません。「対話」と「会話」を区別するには、対話を方法論としてみなす必要があります。

 

2、方法論としての対話

 対話はコミュニケーションにおける一つの方法論であると仮定した時点で、「会話」との違いは明らかになります。なぜなら、「会話」にはルールが存在しないからです。(もちろん、会話という言語ゲームの中で当事者間にルールが作られることはあります。)たいてい、有効な方法にはきちんとしたルールがあります。哲学カフェや対話カフェ、精神療法の一種であるオープンダイアローグにおける対話には、有効な方法たるゆえんであるルールがあります。そのため、方法論として対話を行う際は、事前に話し合う場所、時間、内容などを話す相手と決めておく必要があります。さらにコミュニケーションを双方向にすること、対等性を担保すること等も対話のルールです。

 

3、概念としての対話

 対話という言葉はしばしば概念的に解釈されます。実はこの概念的、比喩的な解釈こそが対話の持つ可能性、奥深さを物語っています。対話には自分とは到底わかりあえない他者と何とか合意を目指して行うというようなニュアンスがあります。「政治対話」、「異文化対話」などの言葉はまさにこの文脈でしょう。そして対話は常に、当事者の考えの変化や発展を伴うものでもあります。対話は考えが異なる他者の意見や価値観を知ることで、新しい知見を積極的に取り入れ、より正しい答えを出す活動です。対話教育を推進している劇作家の平田オリザさんは自身の著書で「対話は、話す前と話した後で自分の考えが変わることで初めてやった意味がある。」というようなことをいっていました。自分の立場を堅持する必要はさらさらないのです。

 この解釈をさらにマクロの視点で見て、比喩の次元に持ち込むと、「自然との対話」や「動物との対話」、「非生物との対話」という言葉が意味を持ってきます。どう「対話」を解釈するかというと、対話とは「双方向的にリアクションしあっている状態すべて」という具合です。人間は常に自然から多大な影響を受けて生きているし、逆に環境破壊など、自然に影響を与えています。そうすると自然からの反作用で砂漠化が進んだり、生態系が崩壊したり、異常気象が起きたりと、自然からの悲鳴のリアクションが返ってきます。このリアクションに対し、一部の人間たちは環境問題を深刻にとらえ、環境保護運動を起こし、自然を守ろうとします。一部の保護活動は甲を奏し、自然が再生されます。この一連のプロセスは互いに作用しあっているので、一部の人間は自然と対話しているといえます。「一部」という言葉を繰り返し協調して使うのは、自然からのリアクションを無視して、一方的に開発を続ける行為、つまり自分の考えを変えない行為は「対話」とは言えないからです。

 

ここまで、長々と「対話」という活動の可能性を意味の検証や解釈を通じで探ってきましたが、いかがだったでしょうか?

なぜ、哲学カフェに対話が重要なのかという肝心な哲学カフェと対話の関係性については踏み込めなかったので、次の記事に書きたいと思います。

対話って面白そう!と思っていただけたら、対話の場を創るファシリテーター冥利に尽きます。

読んでいただきありがとうございました。