竹田青嗣 『欲望論 第1巻「意味」の原理論』紹介

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(シリーズ投稿が頓挫していることはおいといて)今回は今哲学界が大注目している竹田青嗣の「欲望論」(既刊2巻)の紹介記事を書いてみることにした。

 著者の竹田青嗣は長年現象学を研究してきた哲学者で現在、早稲田大学国際教養学部教授である。弟子には著書「読まずに死ねない哲学名著50選」が人気を博した気鋭の哲学者平原卓がいる。竹田はこれまで主に難解な哲学的概念をわかりやすく説明した入門書、解説書で定評を得てきた。

 そのため、私がこの本の出版の報を聞いたときは、「ついに竹田青嗣独自の哲学理論を確立したのかっ!」という驚きと興奮でいっぱいだった。1巻691ページの耽溺な書物である。大学の図書館主催の選書ツアーに参加し図書館の蔵書として購入してもらった。

 今借りて読んでいるのだが、正直に言おう。私はまだ序文しか読んでいない。しかし序文にしてかなり読みごたえがあり、紹介記事まで書けてしまった。序文では現代まで約2500年の哲学を総括するという大スケッチを描いているのだ。本文から始まる竹田現象学がこれからの哲学思想の潮流にどれほどの影響を与えうるのだろうか。読み進めていくのが楽しみでならない。長い前置きになったが、以下が紹介記事本文である。

 

 哲学は今、出口の見えない迷宮に迷い込んでいる。

 ニーチェを出発点とする現代思想は、形而上学批判、近代哲学批判を主体の認識が決して普遍性を獲得しえないことを証明することによって近代的諸価値の病理を克服する超近代の思想として独自の地位を築いてきた。

 しかし竹田現代思想には形而上学的な認識論(認識の主体は自己である)を前提にせずには、成立しえないという根本的な欠陥があると指摘している。なぜなら現代思想分析哲学、論理学、心の哲学、科学哲学等)は歴史的蓄積のある形而上学な「普遍性」の観念を否認した先に相対主義を持ち込むからである。つまり、竹田の言葉を借りれば、

 相対主義は社会的、政治的な現状否認を主張するあまり、宗教原理主義であれ過激な救済思想であれ、形而上学的観念と等価な「信仰」として認めざるをえなということを意味している。

 また、竹田は形而上学的観念(本著では「本体」と呼ばれる)と相対主義の関係を本著で次のように比喩している。

 

あらゆる相対主義思想は、「本体」の観念を養分として認識の理論に座る寄生樹であってそれゆえ「本体」の解体にたどりつくことができない。

 

 しかし竹田はこの危機的状況においてフッサール現象学に希望を見出すのだ。主客の認識の双方向性を主張する立場から「本体」を解体し、「美」や「善」といった哲学的問題について独自の思想を展開する。

哲学を新たな局面へと移行させる歴史的一冊。竹田現象学の到達点がここにある。