コミュニケーション論提題 ~コミュニケーションギャップはいかにして生まれるか?~ 

人間の認識の構造を考察した代表的な哲学者にイマヌエル・カントがいる。カントは著書「純粋理性批判」の中で、アンチノミーという概念を提示し、人間の認識の限界をつきつめている。アンチノミー(二律背反)とは、”ある命題とそれに反する命題が互角に成立してしまうために、どちらの命題が真であるとも決定できない状態のこと”(Philosophy Guides 「カント『純粋理性批判』を解読する」より引用)である。この概念を把握するうえで気を付けておきたいのは、相反する二つの命題がどちらとも"正しい”わけではなく、どちらとも一定の妥当性を持っているため、どちらが正しいかを判断することができないという点である。カントはこのアンチノミーの概念にあてはまるものとして、世界の空間的・時間的始まりと終わりを挙げている。つまり、論理的にはこの世界に始まりや終わりがあるともいえるし、ないともいえるため、世界の限界の存在の正否を明らかにすることはできないといっているのだ。カントが言うように、人間の認識では、この世界の起源でさえ、アンチノミーとして説明されるなら、人間が認識し、思考し、解釈した結果、"正しい”と決定されるあらゆる価値判断や、それに基づく行為は一体、どれだけ普遍的に”正しい”といえるのだろうか?別の言い方をすれば。ある一つの命題が、相反する別の命題の論理的妥当性を完全に否定し、排除しうるだけの穴のないロジックを持ちうるだろうか? ここで、読者諸氏と吟味したいのは、「普遍的な正しさは存在するのか?」という哲学的命題ではなく、「自分の自分の行為や他者に対する認識を"正しい”と信じて疑わない態度が、他者とのコミュニケーションにおけるひずみ(この人とは話が通じない、この人とは絶対に分かり合えない等のステレオ対イプ)を引き起こしているのである」というコミュニケーション分野における分析的命題である。このいささか陳腐で、諸氏にとっては既知の事実をあえて実証しようという試みには二つの理由がある。一つは、コミュニケーションギャップのメカニズムを、両者が共有していると"思い込んでる”イメージのずれを象のどの部分を見ているかに例えることで、概念化して分析した細谷功の「象の鼻としっぽ」理論と、コンテクストのずれの存在を理解することを前提にしたコミュニケーション教育を提示する平田オリザのコミュニケーション論の理論的統合を試みようといういくらか野心的で生意気な動機である。さらに、両者のコミュニケーション論の理論的統合の結果、見えてくる人間のコミュニケーションの根底にある知的態度(知性主義対反知性主義)に加え、高度情報化社会の発生に関連付けた現代人の心理的傾向分析にまで踏み込もうという心意気である。知性対反知性主義の考察においては、内田樹の知性主義論と佐藤優反知性主義の定義(自分にとって不利な情報や事実の客観性を軽視、あるいは無視し、都合よく解釈しようとする態度)をもとに展開するつもりである。そして最後に、既に指摘されている事柄かもしれないが、コミュニケーションギャップのメカニズム解析のプロセスとクリティカルシンキングのものの見方の共通点や類似点に触れておきたい。 以上がこれから行う論述のおおまかな流れである。壮大な旅路になるがひとりでも多くの読者を目的地まで連れていけたら幸いである。そこで見える景色に感動と新たな発見、充実した読後感が伴うよう、善処していく所存だ。断っておくが、学術的な研究成果や、卓越した洞察力による筆者個人のオリジナルな理論の構築はほとんどないといえる。理論のつぎはぎによる思考と洞察の展開である。だが、脱構築的にいえばそもそもオリジナルなどないのだともいえる。